『与えてもらえない』
『ない』
そんな不足感がベースだった。
だから
『望むことより望まないこと』に
意識がいってたんだと思う。
だって『与えてもらえない』がベースだもん。
『与えてもらえる』という望む状態より
『与えてもらえない』という
望まない状態の方に意識がいってた。
不足がベース、望まない状態にいる自分がベース。
『与えてもらえない』不足の自分であるために
そういう自分であるという証拠を見つけて
自覚してたんだと思う。
『与えてもらえる自分はおかしくて』
『与えてもらえない自分が普通』だから
そのベース(いわゆる観念)に沿って
『与えてもらえない』に意識を向けて
『与えてもらえない自分』を自覚してた。
ほんとにベース(観念)のまんまだよね。
常にベース(観念)に沿って
『与えてもらえない私』
『不足を感じる私』でいたと思う。
『望むものが手に入ってない』
そこに意識を向けていた以上、
『与えてもらえない自分』っていう
ベース、根本的な土台、観念を
私は[補強し続けていた]ことになるんだよね。
「ほら、やっぱり与えてもらえない」
「私にだけない」
「なんでないんだろう?」
そう思う証拠を探すことで[補強]してた。
『与えてもらえない証拠』を探すことで
『与えてもらえない自分』を確信して
『与えてもらえる自分になるために』
『一生懸命自分にダメ出しをして』
『至らないところを見つけて』
『自分を変える私』
そんな私になってた。
そんな自分を叶えてたと思う。
『与えてもらえない』が嫌で
『与えてもらえる私』になりたかったのは
本当だけど
元々ある土台が
『与えてもらえない自分』で
『そんな自分はダメ、変えなきゃ』
そんな風に思っていたら
《望まないことを見て、自分を変える》
それを繰り返すのは当たり前だった。
<当たり前>
当たり前だったからこそ気づかなかった。
それが普通だったからこそ分からなかった。
自分の土台にあった
『与えてもらえない』『ない』という不足感。
『与えてもらえる自分になるために
自分を変えなくちゃいけない』という
健気な想い。
望むものを得るためには
望まないことを見て自分を変えるのではなく
望むものを見ることなんよね。
意識を向けたそれが来るから。
でも、望まないことを見ることが
あまりにも当たり前すぎて
望むものを見てるつもりが
望まないものを見てる時間の方が
圧倒的に多かった。
そりゃ現象変わらないわ。
変わってることより
変わってないことに意識を向けてる。
望んでることより
望んでないことに意識を向けてる。
そうして感じる不満が
また不満を感じる現象を連れてくる。
不足感を感じることを
私はちゃんと叶えてたんだ。