わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

引きこもってた私がいま思うこと~長話~

最近、引きこもりの中高年の話を耳にする。

中学で引きこもってから何十年とそのままで
子供は無職、親は高齢とか。

そういうニュースの時
引きこもってる子供側が非難される。

「親はたまらないだろう」とか
「親も精一杯やっただろうに」とか。

私も引きこもってた時があったから
そういうコメントを耳にするとすごく胸が痛む。

引きこもってる本人もどうにもならなくて
辛かったりするんだけど

世間はあまり、そういうところには触れない。

それがいつも気になる。

ってゆーか
誰でもそうなる可能性がある話なんだけど。


なぜ学校へいけなくなったのか?
なぜ職場へいけなくなったのか?

それはホントに人それぞれだと思う。

それなのに何故かこの世界は
物事をひと括りにして考える。

「立ち直った人はいっぱいいる」
「アルバイトでも何でもすればいい」
「親は精一杯やったんだろうに可哀想」

その人はその人、この人はこの人だと思う。

立ち直ったその人の過程はどんなものだったのか?

引きこもってる側の一面にだけライトを当てて
批判してるだけのように感じられる。


私が引きこもった理由は、
疲れてしまったからだった。

精神的に幼かった親に支配され
機嫌を取る役目をさせられ

その状態で学校だの仕事だの
疲れて当たり前だったと思ってる。

落ち着ける場所がなかった。
気の安らぐ場所がない。
家でも外でも力が抜けない。
気を緩めることが出来ない。

自分の感情をコントロールすることを学ぶ段階にある子供に、そんな実践いきなり無理だ。

やがて四六時中張り詰めた中でその糸が切れ
あらゆる刺激が嫌になった。

耐えることに耐えられなくなったのだ。
何もかも嫌になった。

いや、嫌になってた気持ちが抑えられなくなったという方が正しいか。

そんな状態の自分も含めてね。


そんな中で親がしてくれたことは何か?

何もないよ。

親からすれば何かを「精一杯やった」って言うかもしれないけど、でも私は、そんな状態でも放置され

疲労疲労を重ねた記憶しかない。


親は「変わらず接すること」が
良いことだと思ったのかもしれない。

言いたいことは山ほどあったけど
あえて言わなかったのかもしれない。

でもそれは、私の場合は
さらに私を傷つけることだった。

悩みがあるのではと聞かれたこともない。

聞かれたくないかもしれない、という思いやりだったかもしれないが、それは親の判断である。

聞かれても、私も言えなかったかもしれないが、
気にしてくれてると分かったら、また違ってたと思う。


そういう親目線のみの判断が
結果として私を傷つけることになっていたとは
あの頃も今も、
親は感じたことがないだろうな。

といっても、親と子、他人。

全て分かるわけがないと思ってる。

ただ親は、子供である私のことをどう見ていたのかなと、最近思う。


私の事を知ろうとしてたんだろうか?
分かろうとしてたんだろうか?


多分親は
「この子はこのくらい言っても大丈夫」とか
何でも親の中だけでそう決めつけて、完結させて
私の事を見ていたと思う。

だから、私の顔色の変化にも気付く事はなかった。

傷付いてる、不快な思いをしてる、そんなことを
考えたり察したりしたことはなかっただろう。

「機嫌が悪い」と言られたこともあるし。

私の機嫌が悪くなったのはあなたの言葉のせいなんですけどねって、よく思ってた。

でも、自分に原因があるかもなんて、しおらしく考える親ではなかったから、余計自分が悪いんだってなっていったよね。

今だったら、そんな言葉に左右されず、
自分で自分を幸せにしてあげようって思えるんだけど、それは今だったらの話。

当時はそんな考え持てなかった。


親はちゃんと私の事を見ていなかったろうな。

だから自分の機嫌のお守りを常に子供にさせてても何とも思わなかったんだろう。

いや、そんな事させてるとか、そんな思いさせてるとか、気付いてなかったんだろうな。

私は、自分がそんな風に思うような気持ちを味わってきたから

「親は親で精一杯やったんだろう」
なんて言葉を聞くと

「誰目線の精一杯だったんだろう?」
って、いつも思う。


本当にその子供の目線に立った
《精一杯》だったんだろうか?

引きこもりになるような心労を
あなたは与えていなかったんだろうか?

友達と喧嘩して一山越える時、話を聞いてあげたんだろうか?
バカにせず、否定せず、声をかけてあげたんだろうか?
話を聞いてあげたんだろうか?


存在を否定したり
自信を奪ったりするようなことは
しなかったんだろうか?


ハッキリ言って私は、からかわれることで
私という存在をけなされ、否定され
自信を奪われたという自覚があるよ。

【意識が先】という話は
とりあえず置いとくけど

そうやって『自分はダメなんだ』っていう認識を植え付けられて、周りと対峙できなくなったのは

引きこもりの大きな一因だったと私は思ってる。


私の引きこもりは、
10代の終わりと20代の半ばにきた。

引きこもるのは学生だけとは限らない。

理由だってひと括りに出来ない。

引きこもりになるきっかけも、訪れる時期も
引きこもる期間も人それぞれ。

もちろん対処もそれぞれ。


私は話を聞いて欲しい人だった。

中には、何も口出しして欲しくないって人もいるだろう。そんな人でも、最後の山を越える時には
手を貸して欲しかったりするかもしれないけど。


大切なのは、そういう自分の
『こうして欲しい』を自覚して
自分に対してしてあげることだと今は思う。

話を聞いて欲しいなら
「聞いて欲しい」と伝える。

言われた方は
からかわずに真摯に聞く。


茶化していいかいけないかは

本当に相手の事を考えていれば

雰囲気や言葉尻から分かるはず。


ただ、自分に自信がなかったり
周りを敵だと思っていると

自分の気持ちを自覚できなかったり
とても言えなかったりする。

私の場合は
ふざけて聞いてもらえないだろうと感じていた。

それで我慢して自分の気持ちを偽るから
どんどん迷路にはまっていく悪循環であった。

しかしそこは
言えない子供が悪いとは言い切れない。

親と子の信頼関係の問題とも言えるから。

子供が何も言わなかったんじゃない。

言えなかった可能性がある事を知って欲しい。


子供の頃、話を聞いてあげてたのか?
肯定してあげてたのか?
頭ごなしに否定しなかったか?
悩みごとを笑い飛ばしたりしなかったか?


そもそも
子供が言ってきやすいような関係を
築けていたのか?


幼少期は、親、周りの大人を頼るしかない。

その期間に甘えられなかった人が巣立っていかないことを、ひと括りに《甘え》と言えるのだろうか?


もちろん、本当に人さまざまだと思う。

自分の傷から逃げたまま、言い訳して引きこもってる人も中にはいるだろう。
苦しんでる人もいるだろう。

何もかもひと括りには出来ないのだ。


ちなみに私がニートから脱したきっかけは
通ってた歯科の衛生士さんに
たった一言、気持ちを言えたことだった。

それを衛生士さんが聞いてくれたことが
長年の疲れを自分で認知するきっかけになった。

自分で認知した。相手も理解を示してくれた。

たったそれだけのことが、
私の進む向きを変えてくれたのだ。

だからってそのあと飛躍的に回復した訳じゃないけどね。たくさんの紆余曲折があった。

マイナスに突き進んでいた姿勢を、少しずつ、
時に大きくら何かある度に自分と対面して
プラスに向けていく作業は容易ではなかったよ。

何十年と逆を向いていたのだからね。
当たり前を変えるのは大変だった。


多くの人は、何となくでも社会に染まっていける。

私は不器用で、折り合いをつけるのが下手で、染まっていられない人だったから、自己否定も半端なかった。本当に大変だった。

ニートから脱したあとも、仕事と仕事の間が空いたこともあったよ。

でも、自分を強く否定しながら社会に怯えて
その中で仕事を探すようなことはもうなかった。

自分が生きるために、
そして貢献するために仕事をする。

前とは違う考え方が
少しずつ出来るようになっていってた。


そして今ようやく
「自分のことだけ考えて生きよう」って
そう思えるところまで来たんだ。


自分を否定しながら、ダメ出ししながら
その状態で社会に出ろ、家の外に出ろって
そんなこと言われてもね

ハッキリ言って無理😵


これも一概には言えないけど
学校にいけない、仕事にいけない、
そういう状態の自分を否定してる人って
多いと思うのね。

元より自分を否定してるから
自分を否定するような状態に
どんどんなっていくって側面もあるんだけど、

そういう状態の時ってね
自分も含めて周りも
『自分を否定してくる対象』でしかないから
とにかく悪循環なんよね💦

自分を否定してる自分も周りも、いわば「敵」。

どこにいても敵だらけの中で
学校だの職場だの行く気になる?

どこ行っても、何やっても
ついて回るのは「否定」なんだよ。

何でも否定のきっかけになる。

否定されないように気を張ってるから余計に
些細なことでバカにされてる気がして
やがて耐えられなくなる。

まぁこれは、私の場合の話だけどね。


私は衛生士さんに話を聞いてもらってから何年になるのかなぁ?5年は経つのかなぁ

安心安全の欲求も、承認欲求も
何もかも満たされてなかった所から5年。

それから本当に自分を変えようと決意するまでは2年。

人間関係の問題、たくさんの死別、失恋。

嫌なことが続いて、そこで「このまま終わりたくない」って思ったこと、その時の覚悟が、私をここまで連れてきた。

その覚悟の時から3年。

やっと周りの目を切り離せるようになった。

長かった。それでもまだゴールじゃない。

私の生き方は始まったばかり。


簡単じゃなかった、生き方を変えることは。

それでも変えられる。

どんな親と子の関係であったとしても
どんな家族との関係であったとしても

自分を幸せにしてあげようっていう意思さえ持つことが出来れば、いける。

私はいま、私という性質(性格)を持った私が幸せになるためには、その覚悟をするためには
あれだけの出来事と、この親子関係が必要だったんだって、そう思い始めてる。

親を切り離せたから、目線が変わってきたのかもしれない。
恐らく母親にとっても、私とこういう親子関係である理由が何かしらあると思うが、それは母自身が母自身のタイミングで気付くべきことなので放置。
私は関与しない。



引きこもりの人や、引きこもりを持つ家族の人は
少し考えてみて欲しい。

当人はまず、幸せになる覚悟を持って欲しい。
自分に許可して欲しい。

「幸せになりたいか」と問うて
「なりたい」だったら、それはゴーサイン。
色々あるだろうが必ず越えられる。

周りの人は
本当にその人のことを考えてきたかを
考えてみて欲しい。

そして双方とも
お互いにどういう関係を築いてきたのか
自分に、または相手に
何かを押し付けては来なかったか
考えてみて欲しい。

普通や常識といわれるもの、

こうあるべき
こうであって欲しい
こうでなきゃいけない

それらは全て無視して欲しい。

その枠に囚われず
自分の気持ち、本当の気持ちを感じて欲しい。
目の前の相手をそのまま見て欲しい。

何歳でも関係ない。その時がその人の時期だから。

無差別に殺傷したり
家族で殺したりしあったり
傷付けあったりするほどのエネルギーを蓄積させて爆発させる前に

自分のこと、相手のことを
ちゃんと見てあげて欲しいと思う。

たったひとつの
話を聞いて欲しいという気持ちを満たしたところから向きは変わった。

あなたにはあなたの
その人にはその人の変化の仕方が必ずある。

助けてくれる人も必ずいる。


自分の向きを少しだけ変えてみて欲しい。