わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

否定が減ってから思うこと

自分に対する否定やダメ出しが減ってから、
自分や周りに対して批判的になってる時、
「あ、私いま批判してる、攻撃してる」って
気付けるようになってきた。

当たり前じゃなくなったから目立つんだと思う。


周りに対して
「もっとこうすれば良いのに」
「何でこんなことするんだろ」
そんな風に思う時、

私は私の中の正義
=もっとも正しいと思う事 を基準にして
物事を考えている。


もっとも正しいと思う事
=私の中の決め事、ルール

私の中の決め事、ルール

それはいわゆる『私の中にある制限』だ。


私の友達に、心が広いというか
相手を批判せず
話を聞き入れることが出来る女性がいる。

「そういうこともあるよね」って言えるのだ。

私は割りとすぐ
「えーでも◯◯じゃない?」
って否定してしまう人。

そうやって自分の意見を言った後で話を聞いて
「なるほど」と思うこともあるのだが

スッと否定なく話を聞ける友達と
否定しなければ話を聞けない私。


違いは『自分の中にある制限だな』って思う。


友達は制限が少ない。

だから、心の中に起きる抵抗が少ない。

自分のルールに則って考えなくて済むから
そのルールに反する者への攻撃も起きてこない。

自分の思う『正しいこと』に従わない自由は
その『正しいこと』を自分に押し付けないぶん
相手にも押し付けたりしない。

理解を求めることもない。


逆に私は、制限が多い。

だから、目にするものの大半に抵抗が起きる。

自分のルールに当てはめて考えるから
そこからはみ出してる者への攻撃も強い。

だって、相手がしてることは
『正しくないこと』だから。


それはこうだよって正そうとする。


何故そんなことをするのか?

自分のルールを相手にも適用しようとするのか?


それは、
本当はそのルールに抵抗があったり
納得していなかったりするのに
自分が頑張って従っているからだと思う。


自分に対して制限をかけているから
その輪から外れてる人が許せない。

否定する、批判する。

例えば、一概には言えないけれど
本当は友達とランチしたいと思ってても
子供がいるから出来ないって思ってる人は

良くも悪くも
「子供や家族を優先してしかるべき」
というルールがあると思う。

もちろん、子供を放りっぱなしで好き放題やってるのは育児放棄。それはまた別問題。

でも、日頃《お母さん》である人が
友達とランチに行きたいと思う時に
それを自分のなかでセーブする場合は

「子供や家族を優先しなければならない」という
強制と紙一重のルールを持ってると思う。

そのように義務的な表現が自分の中にある時、

大抵その本人は

その事に納得していない。

「本当は家族ではなく自分を優先したい」
「自分の思うようにやりたい」
という思いがある。

でもそれを
「家族を優先してしかるべき」
というルールに則って抑えている。

納得していない。不服である。

だから、子供がいても自由に外出してる人を見ると

「子供を放っておいて⚡️」とか
「母親の癖に⚡️」とか言って批判する。


これは現実的に
子供を放って出かけて良いという話ではなくて

問題なのは

自分の本心を「こうあるべき」というルールで抑えて、本当は自分もそうしたいのに出来ない不満を「攻撃」という形で誤魔化してることにある。


私がそうだった。

自分の気持ちを、自分で自覚できないほどに抑え込んで、不服だった。

でも自覚してないからイライラするばっかりで、
そのストレスは、否定や批判をすることで
撒き散らしてた。


自分の中に、何かしらのルールがあること。

それを自覚することは大事だと思う。

けれど、往々にしてルールがあるということは
ルールとして設定しておかなければならない程、
その事に『従えない』とも言える。

それでも、そのルールに納得していれば
周りがそれと違うことをしていても気にならない。

気になるのは
自分がそのルールに納得していないから。

そこから脱したいと思ってるから。

だから
自分がやりたいことをやってる人を見ると
攻撃したくなる。


ルールから逸れてる人を批判することは

イコール

ルールに従ってる自分を批判しないこと。


否定や批判をする人は
そのルールがあるゆえに自分に制限をかけていて
しかもそのルールに納得していないと思う。

何が正しくて、何が正しくないか?

それにとらわれているから
自分の本心が納得するものを選べない。

「子供がいても友達とランチ行って良い」

何故そう思えないのか?
預けるのが悪いことだから?
預けられる人がいないから?
母親は我慢して当然だから?

そんな思いで自分と接してるって子供が知ったら
どう思うんだろうね?


ルールから外れたら
視点がずれる分、策は見つかると思う。


きっと色んな否定や批判は
自分にしている様々な制限から外れて
心のまま自由に在りたい、
もっとこうしたいっていう欲求の現れであり

様々なルールに則って生きてる自分を正当化して
自分は間違ってないと肯定したい、
その欲求の現れでもあるんじゃないかと

そんな風に思う。


別にもっと
色んなこと自由で良いと思う。


『心』という
縛れないものがある私達。


もともと縛れる生き物ではないんだよね。


という事も、人に強制すれば押し付けになる。

その考えが正しいんだって納得したい自分の現れになる。

でも、今のわたくしはそのように思うから、
ありのまま、思うように書いておく。