ジャッジをしない
私はすごくジャッジする人だった💦
「この人は○○だから良い。
私は(あの人は)△△だからダメ」
自分に対しても、人に対しても、それはもうあらゆる事に目をつけてジャッジを下していた。
自分にしていたジャッジは、ある時までは
「自分はこの人よりマシ」と思う為のものだった。
自分を高めるのではなく、周りのアラ探しをして、周りを下に下げることで安心しようとしていた。
「あの人はこれが出来ない。でも私は出来る」
➡だからマシ。
こんな感じ。
でも、そういうのってその場限りだし、いつも誰かの下にならないように気を張って必死だったので
とても疲れた。
そしていつからか、周りの人ではなく、自分の至らない部分ばかり見るようになった。
「あの人はこれが出来るけど私は出来ない」
➡だから私はダメなんだ。
こんな風に。
元々「もっと頑張らなきゃ」と自分を追い込んだり「ダメな子だから我慢しなきゃ」と抑圧したり、
自分いじめの傾向が強かったわたくし。
ジャッジのエネルギーが全部自分に向いたことで
元々あった自己否定は一気に加速した。
何年も何年も、疑うことなくそのまま過ごしてきたけど、最近になってようやく
「ジャッジっていらないんだな」
ってことに気が付いた。
ジャッジしなければ『その状態がただあるだけ』
なんだよね。
例えば、私はピーマンが苦手(^^;
ここで「みんなは平気なのに私はダメ」とジャッジすると「ピーマンが食べれない私はダメ」になる。
だけどジャッジしなければ
「ただピーマンが苦手な私がいるだけ」。
「ピーマンが苦手な私をダメだ」って否定すると
『食べれるようにならなきゃ』ってなったり、
引け目を感じたりしちゃうけど、
「苦手な私」のあとに「ダメだ」をつけなければ、『苦手だからピーマン料理は避けよう』とか
『どうしたら食べられるようになるのかな』とか
考える方向がずいぶん変わる。
○○であるという自分のその状態を、そのまま受け入れたらいいんだよなと思う。
その事に気が付いてから、物事の後に
「~~だから悪い」という、ネガティブな意味付けをすることがグッと減った。
そしたら、これまでは「ダメだから」と選べなかったことが選べるようになった。
「ダメだから」がつかないから、何を選ぶのも自由になった感じ。
「○○な私って素晴らしい!」っていうポジティブなジャッジは、ネガティブなジャッジとは別で、どんどんしたら良いと思う。けど、ネガティブなジャッジはしないに越したことない。初ブログの記事にも繋がるけど、自己否定はほんとにいらない。