わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

それ誰のため?と思った

『誰のために自分を変えようとしているのか?』

自分の中からその言葉が出てきた時

『よりよくなろう』

そう考えることが

自己否定と紙一重であることに気がついた。


私は
職場に嫌いな人がいる。

あの男に
彼との時間を邪魔されたことは
すごく不快だったし
じっと見られてるのも不快だった。

抹殺したいほどだった。

キャピキャピしてる40代の女性もそう。
物わかりの良いふりをした負けず嫌い。
絶えず喋っててうるさくて
とても不快だった。


そういう不快さがしんどいから
自分の物の見方や在り方を変えようと
必死になってた。

人は変えられない。
不快に思う理由を探り当てて取り除かなきゃ。
不快に感じない自分に変わらなきゃ。

そう思ってた。


けど。


それって

今の自分の物の見方や在り方を否定してるのと
ほぼ変わらないこと

なんよね。



『今の自分から変わりたい』
『こうなろう、こうなる』
そう思うこと自体は
悪いことじゃない。

でも
『いまの自分じゃダメだから変わろう』

そう考えるのと

『いまの自分でも良いけどこうなろう』

そう考えるのとでは

発しているエネルギーも
向かっている方向も
全然違う。


私は
不快に感じる自分を
否定しまくってた。
そう感じる自分がいけない、
そう思ってた。

でも『いけないこと』なんてない。

だって『不快』だったんだもん。

嫌だなと思う自分、
嫌いだなと思う自分、
そういう自分が悪いんじゃない。

そういう自分を否定して
『そういう自分じゃなくなろうとする』から

変わろうとしても抵抗が来る。
無理が生じる。

おまけに感情を抑えることになるから
ずーっと残る。


【意識してるそれが現象化する】


自分を否定的に見て
変えようとして苦しんで

でもそれって

『誰のため?』

『誰のために自分を変えようとしてるの?』

結局は
相手を迎合するために
受け入れられる自分になろうとしてない?

我慢してるから
いつまでもはらわたが煮えくり返ってる。


良い子になろうとしてない?


本当に自分がラクになることを考えてるんだったら
『キライ!』って認識して
徹底的に意識に入れない法も
あるわけでしょ?

それなのに
『キライ!』って認識すること
そう思うこと自体を取り除こうとしたら

否定されたその感情は
蓄積していくより他ないよね。
行き場がないんだから。


そうやって
自然と沸き上がってくる自分の気持ちを
否定して消そうとしていたら
それらの感情は認めてもらいたくて
余計に疼く。

自分で自分のことを認めていないから
目の前に広がる景色は
当然【認めてもらえない景色】。


内側からも外側からも認めてもらえず
不満と言う感情まで出てきて
自己否定と不満が渦まいて
そのなかで自分を変えようと
更にもがき苦しむ...


その苦しさは『誰のため?』


もっとありのままを肯定して
許してあげても良いのかもしれない。


変えようとなんかしなくて良い。


私はもっと
ありのままの自分を見て
抱き締めてあげるべきだと思った。

もちろん、自分のために。