わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

たった一言

親を憎んではいけない
親を恨んではいけない

精神的に沈んでいた時、私はこういう言葉に圧迫された。

私はこれまでに3回、精神的に大きく沈んだ経験があるのだが、1回目の時は、ただただ自分が悪い、弱いと考えていた。その数年後に来た2回目の沈み。1回目の時よりひどく、鬱っぽかったと思う。この時は、自分の状態には家庭環境がかなり影響していることを認識していたので、ネットで色々と調べた。

簡単にいうと、私は家庭における道化師だった。
雰囲気の為におどけたりしていた。心に思ってなくても、雰囲気が変わるなら嘘もついた。
私は常に気を張っていて、周りの空気に敏感で、顔色をうかがう子供だった。必要とあらば、立場をコロコロ変えた。親の友達や、親の親にもなった。
家庭でも緊張、学校でも緊張で、精神バランスはかなり悪かったと思う。

おどける、それゆえに私は、家族からのからかいの対象であった。今でもそうなのだが、軽い扱いを受ける。肯定された記憶が全くなく、その為自信がなくて自己否定が強い。人を下げて、自分を優勢に見せることを止めてからは、より一層自己否定に拍車がかかった。

励まされるどころか馬鹿にされる為、真面目な話や相談事などがあっても出来ず、いつしか悲しみや弱みも出せなくなり、感情の解決方法は我慢しか分からなかった。おかげで自分の気持ちが全く分からなくなっていて、それが余計苦しみを生んでると感じた。

『それなのに、明らかに親が絡んでこんなに苦しいのに、親を憎むなだと?』

正直そう思った。

そりゃ私はまだ親になっていないし、親の苦労なんて分かってないと思う。親だって完璧ではないのだし、多くの人は「育ててもらって感謝しろ」と言うかもしれない。

でもさ、
子供が弱音を吐けない環境って何よ?
子供を励ますどころか笑う親って何よ?
子供をからかって馬鹿にして、その事をなんとも思わないってどういうこと?
っていうか、学校だったら「そんなことしたらいけません!」ってなる話だよね?
でも家庭だったら良いの?傷付いてる子がいてもコミュニケーションになるの?仲良いねってことになるんだ?見捨てられるのが怖くて一生懸命笑ってた私は、見捨てられない為に笑われても仕方なかったんだ?それが当然だったんだ?

私は、私に対する親の関わり方はおかしかった!と言いたかった。だけど、当時私が読んでいたどのサイトにも「親を憎んでいい」などとは書いていなくて、私は自分の気持ちとの間で板挟みになっていた。
というのも、自分の気持ちを抑圧し、周りに合わせてばかりいた私にとって「親を責めたい」という気持ちに気付くまでも長かったのだが、そういう自分の気持ちを優先するところまでは当時まだいけなくて、誰かからの後押し、オッケーサインが欲しかったのだ。

しかし、求めていたオッケーサインは見つからず『親がどうであれ、憎まずやってる人はたくさんいるのだから、やっぱり私が悪いのか、弱いのか』と思いながらネット検索を続けていた。
そんなある時、確かアダルトチルドレンについて書いてあるサイトだったと思う。

ついに一文の中から、

「親を憎んでも良い」 という言葉を見つけた。

『あぁ憎んで良かったんだ』と、

私は心底安堵したのを覚えている。

それなのに、どこのサイトに書いてあったのか、詳しいことを覚えていないのだが(^^;
とにかくあの時、私はめちゃくちゃ安堵した。

その後、毒親という言葉を知り、そういう本が出ていることも知ったのだが、
あの時、あの一言を見付けられなかったら、
たった一言だったけど、あの許可の言葉を見付けられなかったら、
私は今でも親への気持ちを鬱積させ続けていたと思う。

親を憎んではいけないかもしれない。
でも、自分が感じている気持ちを無視するのもいけない。私は確かに傷ついたのだから。

受けた傷があって、そこから親を憎む気持ちが出てきたのなら、憎んでも良いと私は思う。
大事なのは、憎み続けないこと、責め続けないこと。こう言っては語弊があるかもしれないけど、
私の場合は、
『私の親はどういうわけか、これを言ったら子供がどう思うか、そういう感じる心を持って生まれてこなかったらしい』
そう思って気持ちを緩めた。こう思うまで何年もかかったし、今でも私の傷を知って反省して欲しい気持ちもなくはないけど、ラクにはなった(^_^;)

だけど実際、
「こうして欲しかったのに」
「こうでありたかったのに」
そう思っていた自分の気持ちを感じて
寄り添ってあげられるのは、
私が感じてる気持ちである以上、
私が抑えていた気持ちである以上、
私しかいないのだと思う。

解放してあげられるのは、癒してあげられるのは、親でもなく、友達でもなく、私自身。

私自身が傷を知って癒してあげてない間は、
周りから何かされても傷口に塩みたいなもので、
満たされるどころかますます惨めになったり、
痛くなったりした。

私が受けた傷が疼く時、それは何より誰より
その傷が私自身に気付いてもらいたい時なんだろうなと思う。