わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

悔しさの発端と拡大と

悔しいという気持ちは
色んなことにくっついてる。

そこに気付いただけでも
ほんと楽になったけど

なんでそんなに蓄積するほど
悔しさを感じていたのか。


最も古い記憶、といって良いのか分からないけど

私が悔しさを感じた時に、一番に思い浮かんだのは
少し年の離れた妹が出来た時。

周りの意識が大きく私から逸れて感じた孤独、
それと共に、
自分を見てもらえないことへの悔しさを感じてた。

すぐ下に弟がいるんだけど、
やはり同性っていうのがあるんだと思う。

私も同じ女の子なのに
幼いというだけで何でも妹が優先されて、
私の頑張りは無視されて、当たり前にされて

そんな自分の扱われ方に
たくさんの不満があった。

こんな扱われ方はおかしい!
もっと大切にされるはずなのに!

そう思っていたから
「妹はそうされてるのに
なんで私は我慢なの!!」って
悔しくなってたんだと思う。

いまでも、私が話している流れで
「◯◯さんはどう?」などと
他人に話がいったりすると

「話が広がった」と思う時と
「話に入ってくるな!」と思う時とが
あるんよね。

後者の時はやっぱり
何かしら満たされてないこと、
納得してないことが多くて、

自分への注目を取られたとか、
自分の在りたい在り方を取られたとか、
そういう風に考えやすい。

何かにつけ「邪魔された」と思いやすい理由は
ここにあるかなと思う。

こう在りたいのに、思うように在れなくて悔しい。
満足したいのに、満たされなくて悔しい。

『私のこうしたいという思いはいつも邪魔される』

そうなるのも無理はなかったと
今となっては思う。


いつも悲しくて、悔しかった。

こうがいいって気持ち
いつも邪魔されて

ないがしろにされてる悲しさ、悔しさ、
私はいつも感じてた。

《誰かのせいで》という気持ちの大きなこと。

実際、
妹の存在だったり
母親の存在だったりに
気を遣ったり
遠慮したりして
自分の気持ちたくさん抑えてきた。

こう在りたい、こうしたい、こうがいい。
これが見たい、これが食べたい、これが好き。

そういうの、全部無視してきた。

誰かのために、自分の気持ちを無視する。
それが常で、当たり前だった。

そうしなければ生きてこれなかった。

『こうしたい』を自覚すればするほど
そうなれない自分、
そう出来ない自分を目の当たりにして、
余計に惨めになる。

惨めな思いしたくない。
悔しい気持ちを感じたくない。

惨めな思いしない為に、
悔しさを感じない為に、
初めからそれを諦める。捨てる。
私には無理なんだと諦める。譲る。

そうして自分を守らなければ
とても生きてこられなかった。

それが私の人生だった。


ほんっとにいつも悔しかったなぁ。

いつもいつも
身を切るような思いしてきたっけ。

寂しくて孤独で
羨ましく見てきたっけ。

手に入れようとして入れられなかったら
悔しさが増すから、それは嫌だから、
手に入れようとすることすら諦めて
初めから何もかも諦めて
全てを遠巻きに眺めて...
でも
初めから諦めても
それは結局
手に入れたいものを
手に入れられてないのとおんなじ。
気付いてなかっただけで
悔しさは同じように増してたんだよね。
悔しさ、悲しさ、惨めさは確かにあった。
感じてた。
抑え込んでただけで
ないわけではなかったんだよね。
むしろ見なかった分
膨らんでしまってた。

気持ちに蓋をすることが招くことは
その気持ちの拡大と蓄積。
それをすごく感じてる。