わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

考え抜いた

例えば連絡が来ない、返信が来ない
ということに悩みやすいわたくし。

でも
【現実は結果】
【私の内面の投影】
これが基本。

私が『連絡』に求めているのは
愛情表現。

『連絡がない=どうでも良いと思われてる』

そういう観念があるから、
連絡がない状態を
私はすごく不安に思う。

それが忙しいでも、
体調不良でも、
理由は関係ない。

『どうでもいい』
『めんどくさい』

そう思われていて、

全ての理由は
連絡しなくてすむための言い訳なんじゃないかって、私はそう考えてしまう。

忙しいって言っとけば
返さなくても不思議はないし
向こうからも来ないだろう。
そう思われてるんじゃないかって
私は不安になる。


不安になるってことは
それは望んでないことなんだから
『相手も本当は私と連絡とりたいし
連絡取ってるの楽しいと思ってる』って
決めてしまえば良いんだけど

連絡の有無で自分の存在の安定をはかろうとする程不安を根底に抱えている私にとって、
それはすごく難しい。

相手の反応が気になるの。
私の立ち振舞いが
相手にどんな思いをさせているのか。

相手が大切だから気になるのもそうだけど、
何より自分が嫌われて
悲しい思いをすることを
私は最も恐れている。



『私はどうでも良いと思われてるんじゃないか』

一言で言えば、この不安だと思う。

本当に必要とされてるのか、
大切に思われているのか、
愛されているのか、

そうじゃないことが怖くてたまらない。

だからいつも身構えていて戦闘態勢。
近付いてきてくれても
信じることが出来なくて
離れていくのが怖くて

悔いたことも1回や2回じゃない。

でも越えられなかった。

この痛みに触れたくなかった。
それもあるけど、
奥が深すぎて、核にあるものがなんなのか分からず、対処しきれなかったのもある。

掴みきれなかった。
何が私をこんなにも怖がらせるのか。

愛されないのは確かに嫌。
いらないって言われる恐怖、
ふてられる恐怖、
確かにすごく感じる。
幼い頃、
見捨てられる不安にかられてた私。
落ち着けなかった私。
安心できなかった私。
不安で一杯だった私。


どんなに感じても
全くスッキリしない。

不安に不安がついて出てくる。
終わりがない。

これまでのそれと違って
全くもって「もういいや」ってならない。

これはもう
思考がホントに完全に
そうなっちゃってるってことなんだろうね。

1+1は2って暗記してるのと同じで

頭の中も
心の中も

「私は本当には愛されてないかもしれない存在」
「いつ捨てられるか分からない存在」

その考えに完全に持っていかれてる。


何をどれだけ考えても
そこから抜け出せないのは

それがずっと当たり前だったからだと思う。

っていうか、
その目線でしか世界を見たことがないんよね。

愛されてないかもしれないっていう見方しかしたことがないから、どんなにいい気分になっても、
愛されて良いって許可しても、
その目線以外で世界を見ることが出来ない。

これまでたくさんの観念と向き合って
「じゃあこうしようよ」って
新しい観念に書き換えてきたけれど、
愛されてないかもしれない不安は、
これ=私って言えるくらいに
ホントに当たり前にありすぎる。

何回アファメーションしたって
絶対浸透しないって感じる。
一時期よくても
必ず些細なことで元に戻るって分かる。


これどうしたらいいんだろう。


そもそも
まずありきなのは私の心なんよね。

『私は愛されてる』

そう思ってるからその表現として

連絡が来るなどの
『愛されてる』って実感する現実が来る。

それは分かる。

連絡が来たから『愛されてる』じゃない。
愛されてるって思ってたから
それを感じられるひとつの方法として
連絡が来たって景色を見た。

でも、大半の私にあるのは
『嫌われてないかな』
っていう不安。
『愛されてないかもしれない』
っていう恐怖。

それを感じているから、
連絡が滞るなどの
『嫌われてるのかな』
って不安になる景色を見る。

それも分かる。

連絡がなかったから
嫌われてるのかなってなるんじゃない。

現実→心は違う。

逆。

心→現実。

嫌われてるのかなって不安になってたから、
不安になる手段として
連絡が来ないって景色を見た。

心が現実になる。

愛されてないかもしれないと感じる景色は
私が愛されてないからではなくて、
『愛されてないかもしれない』って
不安に思っていたから見た景色なんよね。
心→現実。
心が現実を創る。

だから目の前の景色が
愛されてないかもしれないと感じるものや
嫌われてると感じるものだったとしても
スルーでいいんだよね。
気にしなくて良い。

確かに以前は
愛されてないかもしれないって思ってたから
そう感じる景色が追っかけて来るだろうけど、
『はい来た古いさようなら~』
で終わらせちゃえば
それでいいんだよね。

これをひたすら根気よくやって
新しい観念を植え付けるしかないのかなぁ。

どうしても現実を見て
好かれてるか、
愛されてるか、
答え合わせをしてしまうから
結局ループなんよね。

【現実は内面の結果】

でもそれは
付け焼き刃ではなく
心から思ってることが現れるということ。

いまこの一瞬
愛される私になったからって
『ハイそうですか』とはならない。

内面が変わってない。

だから現実を見張る。
早く結果を見て安心したい程、
確信を得なければならない程、
不安で仕方ないのが本心。

その不安で仕方ない本心が
次の現実を創るのよ。

それなのに
『変わらない』って嘆いて
『やっぱり愛されないんだ』って落ち込んで
また不安と望みとを繰り返す。


現実を見て安堵しなきゃならないほど
不安なのよね。
確証がないと安心できない。
不安で不安で仕方なかったから
『現実で答え合わせ』して
その不安を取り除こうとしてる。

おかしな話よね。

心が現実を創るっていったら、
どう考えても心のほうが重要なのに、
どうして私はこんなにも
現実に重きをおいているのかしら。

現実が違うからって落ち込むのはどうしてかしら。

私の心が全てを創るなら
『また変なの創ってたんだな』
で終わらせて
創りたいものに意識を向けたら
それで良い話じゃない?

どうしてそれが出来ないんだろう。


目に見えるといっても
どうせ過ぎ行く現実でしょ。
私次第で
次の瞬間には変わるもの。
そんなものに保証つけてもらわなくても
私が『こう!』って決めたら
それで良いんだって分かるのに、

そうすれば
それに従った現実、
内面に従った現実がやって来るって分かるのに


どうして愛されてるって許可をおろすことが
出来ないのかな。


証拠なんか要らない。
誰の許可も要らない。

だって創造主は私。

それも分かるのに
どうして望むものを
真っ直ぐに望むことが出来ないのかな。


周りに愛されたい、
大切にされたい。

だったら
愛されてる自分や
大切にされてる自分をイメージして
意識を向けてればいい。

いまこの瞬間
何をしていても、何を考えていても
『愛されてる』をはじめ、
好きなものを選ぶことが出来るのに

どうして望まないことを考えるの?

どうして
愛されてない証拠探しをしてしまうの?

もしかして本当は
愛されたくないの?

愛されてない方が安心だったりする?

愛されてる状態から
愛されなくなることが辛いから
初めから愛されないように拒絶してるの?


うーん
確かに私は、自分が傷付かない為に
望むことを望まないふりして遠ざける癖がある。


愛されたいのに愛されない、
分かって欲しいのに分かってもらえない、

真反対の決めつけをして
あえてそうならないようにしてるのは

もしかして

私が恐れているのは
愛されないことではなくて
愛されなくなることだからか。

分かってもらえないことより
分かろうとしてもらえないことが怖い?

だから
初めから真反対にいるの?

望まない結果に至る途中経過が嫌だから
初めから望まない結果に留まってる感じ?


あぁ、だから私、
早く結果が見たいのね。
どうなるか分からない状態が嫌だから、
早くハッキリしたい。
結果を待つ間の
落ち着かない気分を味わうのが嫌だから、
初めから味わう必要がない位置に
自分を置いてるのかもしれない。

あー、道理でね。
他の観念と違って中々変えられないわけだ。
望まない方にいることを望んでるんだもん。
その位置から
「こうだったらいいな」って思ったって
その位置から動くのは嫌なんだから
そりゃ望むようにはならない。
そもそも最初から
叶わないことを選んで
そのポジションにいるんだもん。
叶わないにロックされてる。
そりゃ叶えたくないから観念も変わらないよね。

大体、
叶えたくないポジションから
叶える方向に取り組んだって
何も変わるわけない。
叶えたくないんだから。

叶えようって思うんだったら
叶えるポジションに動くこと。

それがそもそも違ったんだな。
私がすべきはそこ。
観念がどうとかは二の次。


っていうか、
望まない結果に至る過程が嫌って何...

望む結果に至るかもしれないのに
望まない結果に至ると考えてるところが
すごいネガティブ...

愛されなくなる、
分かろうとしてもらえなくなる、

望まない方に注視して
それ基準で考えてたら、そりゃこうなる。

我がことながら驚くわ... orz