わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

相手への感謝

今回、私が気付いた
「私が意見を言うと相手は拗ねる、ふてる、嫌われる、歩み寄ってくれない、知ろうとしてくれない」などの気持ち、
「好かれたかった、愛されたかった」
という気持ち、

深く沈んだところで根付いていたそれに気付かせてくれたのは、私と些細な意見の衝突をしてくれた人だった。

その人は、私にとってはすごく大切な人。
考え方、姿勢、尊敬してた。

これまでの関わりの中で、
私が自分の意見や考えを全く言わなかったことはなかったんだけど、
あの日は何故か、相手がのっけから否定的で、
私も恐怖心が刺激されて身構えてしまったから
どちらも引き下がれなくて、
冷静に今考えてみれば、
相手が早々に身を引いた感じではあったんだけど

私にはそれが地雷だったんよね。

興味がないように見えた。
どうでもいいって思われた気がした。
「この人も私が意見を言うと去る人なの?」
その不安が込み上げてきた。

確かに
ゆっくり話す時間がなかったのはそうなんだけど、
また後で話そうとか、一言あれば違ったのに
そこで断ち切られてしまったからなおのこと
悲しいし不安になるし、苦しいよね。


だけど、今になってみれば、
相手の気持ちは相手にしか分かんないし、
もしホントに私の意見を聞いたことで
「この人はちょっと」って思ったなら
その程度なんだと思うし、
私が私を否定する必要はないと
そう思うんだよね。

前、友達と楽しみにしていた約束が立ち消えになった時に、その友達が「また連絡する」って言った言葉を信じられなくて、一人で不安になってた時は、相手を信じるって決めて乗り越えた。

でも、今回はちょっと違う。

この状態で、例えば
「相手はきっと歩み寄ってくれる」
「気持ちや考えを知ろうとしてくれる」
って信じるのは
いけないことではないと思うし、
心からそう思ってれば、そうなると思う。

けど、どうしても今の状態でそう思うのは
気持ち的にも無理があるし、
相手への一方的な期待になってしまって、
そうしてもらえないことへの悲しさ、不安、
そういうのが募る気がするんよね。

相手を信じるって決めるのは
今回はちょっと違くて、
相手を一切関与させることなく
自分で自分を満たしてあげること。

それが大切かなと思う。

相手を関与させると、我慢する部分、
押さえ込んじゃう部分が絶対出てくる。

ずっと根底にあったものを解放しようという時に、蓋になるようなことはしないほうがいい。

それに

相手は、私のこの地雷、この観念に
気付かせてくれただけだと思うんだ。
例え今回のことで相手が去ったとしても、
関係性が何かしら変わったとしても、
私にとって
根っこの部分にあったこの観念に気付けたのは
すごいことだと思うんよ。
相手は、私がこの観念に気付く為の役を
買ってくれたんだと思うんだよね。

知ろうとしてもらえなかったその姿勢、
そんなに話してないのに引き下がられた悲しさ、
それは正直、裏切られたようで辛かった。
といっても、それも私が勝手に
「この人は聞いてくれる」って
そう期待してたからだと思うし、
それらがなかったら
私は気持ちを自覚することは出来なかったから

やっぱり感謝だなと思う。


人生はきっとその繰り返し。

人だったり動物だったり物だったり
何かと関わって、何かに気付いて、
生きながらにして生まれ変わっていく。

それが私たちであり、私たちの人生。

今回私に
こんな重大な観念に気付かせてくれた相手には
ホントに感謝しかない。

出逢ってくれてありがとう。
おかげで
私はまたひとつ
より良く生まれ変わることが出来る。