わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

家族のことで理解したこと

親のことというか、家族とのことは
本当に根が深いなと思う。
ちょっとのことでも心が刺激され、
とても強い反応が内側から返ってくる。

刺激を感じる出来事自体は、
親が口にした些細な言葉だったり
家族がとった些細な行動だったり
どれも小さなことなんだけど

私の内側はそれに対して機敏に反応し、急激に温度を上げて、マグマをボコボコいわせ始め、

噴火寸前の戦闘状態にまで一気に加速したら
心の中は飛び出しそうな腹立たしさや悔しさ、
憎さなどの感情でいっぱいになる。

その中で最も強い感情は『怒り』だ。

その怒りは、親兄弟が私にやって来たことに対して
何の疑いも持っていないということに起因している。


私自身『自分がどう思ってきたか』というのを伝えなければ、周りが私の気持ちを知ることはないだろうと思っている。

視点というか、採用してるものって人それぞれ違うから『自分はこう思っている』と言うのをきちんと伝えなければ、自分の気持ちを周りに分かってもらうことは出来ない。

私だって、ちゃんと言ってもらわなければ、
こうかな、という予測は出来ても『分かった』とは言えない。
だから言ってもらいたいと思ってる。

だけど、これが厄介なところ。

『言っても分かってもらえるはずがない』
『今さら分かってもらっても仕方がない』

私はそう思っている。

この気持ちが拮抗していて、
分かってもらうことも
分かってもらうことを捨てることも

出来ないでいる。


家族のことに関しては、本当に何回も悩んできて、
今回もまた、たくさん悩んだ。
私が悩み、考えるような目に遭ってるのはおかしいと思いつつ、たくさん悩んで、考えた。

家族への怒りは、あまりに短いスパンで繰り返されている。
何故なのか、どうしたら良いのか、さんざん考えて
1つ思ったことがあった。


どこかの記事にも書いたけど

今の私は家族に対して

『この人達はそういう心を持っていなかったのだ』という視点から
『仕方なかったのだ』という思いを持っている。

けれど、完全に『仕方なかった』と割りきれているのかと言えばそうではなくて
些細な刺激から怒りや憎しみが沸き上がっていることを考えても
割りきれていないのもまた事実。


私が持っている
『この家族は理解する心を持っていなかったのだ』という視点は『諦め』に近い。

諦め。

『今の私』はそれで納得できても
『かつての私』はとても納得できることではないと感じた。

私は確かに傷を受け、痛みを感じたからである。
その傷を受けたのは仕方なかったのだ、とはとても思いきれない。

なかったことになってしまうからだ。

だから、常に沸点近くで沸々と不満の感情が沸き続けている。
沸点に近いから、些細な刺激でその沸点を越えてしまう。
だから短いスパンで繰り返される。

そう思った。


話を聞いてもらいたかった私
分かってもらいたかった私
でも叶わなくて、たくさん傷ついた私

たくさん傷ついたけど
その傷の手当ての仕方が分からなくて
ずっとずっと痛かった私

その痛い痛い傷の上に
更に傷を重ね続けるしかなかった私。

そうであるしかなかった私のことを
私は理不尽だと思っている。
仕方なかったで納得できるか!と感じている。

それも本当の気持ちなのだ。

今でも刺激に敏感に反応するほど
私の傷は癒えてない。まだ痛んでる。


自分の声を聞くようになってから、
感情を抑えるということはほぼなくなった。

怒りのままノートに書きなぐるし
泣きたい時には思うまま泣くようになった。

食べたいものを食べることも増えたし
昔の私よりは生きやすくなったと思う。

実際、とても心地よく過ごせる時間が増えた。

だけどそれは全て『今の私』に従ったこと。

だから
『今の私』は満足できるけど

『かつての私』は

『今の私の欲求』では満たされないんだってことが

ようやく理解できた。


『かつての私』が受けた傷を放置したまま
『今の私』の欲求を満たしても

それは傷付いてきた『かつての私』を無視してることと変わらない。

むしろ
『今の私』が満たされれば満たされるほど
『かつての私』は、いつになったら満たされるんだろうかと、孤独感を募らせていた気がする。


今の私の欲求を満たすこと自体は、決して間違いではない。っていうか、絶対必要。
特に私は、自己評価がめっちゃ低かったし。

でも同時に『今の私に至るまでの私』にも、もっと寄り添って、かつての私がして欲しかったことをしてあげて、その傷の手当てをちゃんとしてあげるべきだったと思う。

あったかい目を向けて
冷えた心にあったかい手を当てて
寂しかったこと、辛かったこと、痛かったこと、
それに耐える過程でたくさんの傷を受けてきた自分のことを、もっともっと助けてあげるべきだった。


『今の自分』はもちろんだけど
『かつての自分』をどうしたら癒してあげられるか
そこに意識を向けて過ごすこと。

それもすごく大事なことなのだと
ようやく分かった。