わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

幼い頃の記憶と怒り⚡️

さっきの記事で
ムカつく気持ちを吐き出した時に
『それでも私発信なんだよなー』
と原点回帰したのはいいんだけど

まだ考えたかったはずなのに
全然考える気にならなくなったので

とりあえず

幸せを奪われたくない
壊されたくない
汚されたくない

そう思っているので

『じゃあどうなることが望みなのかな?』

という視点に立ち返って
その望みを打ち出しておこうと思った。


私は好きな人と一緒にいたい。
誰にも邪魔されたくない。
僅かな時間でも
一緒にいれることが嬉しい、
関われることが嬉しい♡

その時間を誰かに邪魔されることは
幸せを奪い取られるのとおんなじこと。

そんなことはされたくない。
奪い取られたくない。
私の幸せは、私だけのもの。
譲りたくない、取られたくない。

ということは

私の『こうしたい』があっさり叶って
いつも満足してる私であることが
私の望んでる状況なのかなと

そこまで書いて思い出したことがある。

ずっと記憶にはあったけど
いま関連付けられた出来事。

それは小さい頃、私の幸せを弟や妹に邪魔されて
不服な気持ちを我慢したことが
確かにあったということ。


そう、あれは私が小学1年生の時。
あの日は平日だったけど
何かの代休で学校が休みで
母と2人出掛けるところだったのよ。
でも幼稚園から、弟が怪我をしたという連絡が入って、行き先は病院へ。

出掛ける間際に入った電話で
言い様のない不安を感じたことは
「出掛けてる間に何があるか分からない」
という恐怖を私に植え付けたし

『邪魔された』
そう思ったけど、とても言えない状況は
負けたとか取られたとか奪われたとか
そういう気持ちを強固にしたと思う。

母と二人だけの楽しい時間を過ごせるはずだったのに出来なかった。怪我をした弟の方に母の意識は向いて、私の存在なんか気にされてないように感じられた。でも、怪我をした弟を責めることは出来なかった。

たくさんのことをぎゅっと我慢したと思う。


今でもこれだけハッキリ覚えているということは、本当に相当の事だったんだろう。


小学校2年か3年生の冬には
こんなことがあった。

私はバレンタインにチョコを作りたかったのよ。
当時読んでいた『りぼん』の付録か何かに冊子がついていたのかなぁ?
でも分からなくてね。
母親はこたつに入ったまま妹を抱っこして寝かしつけてたのか、手が離せなくて、私に口だけでやり方を説明したんだけど、分かるはずないよね(^^;
結局全然出来なくて、母親は機嫌悪いし、
不服だったなぁあの時も。
でも妹を責めるわけにいかなかったし
母親のこともね。
責めて見捨てられたら終わりだもの。

あの時も、随分我慢したんだなと思う。


もしかしたら他にも似たようなことがあったかもしれないけど、やりたいことや楽しみにしていたことが他の存在のせいで頓挫した時

私は怒りたかったんだろうと思う。

「なんで怪我すんのよ!邪魔しないでよ!なんで病院なんか行かなきゃならないの!遊びに行くのはどうなったの!埋め合わせもないのかよ!私はどうなるの!」

「手が空いたら一緒に作ろうくらい言っても良いのに!私の希望を叶えるのがそんなにめんどくさいのか!そんなにどうでもいいのか!私はこれがやりたいの!作りたいの!興味を邪魔すんなよ!」

十数年経った今でも
ざっとこれだけの言葉が出てくるんだもん。
私の受けた傷は深かったんだなって
今更ながらに思う。

楽しみな気持ち
やりたい気持ち
興味

そういう純粋な自分の気持ち、
そう思ってる自分のことを
大切にはしてもらえなかったという思い。

悲しさ、悔しさ。

『私はその程度なのか』って
そりゃなっていくと思った。

それは悲しみでもあり、怒りの感情。

でも
怒りたかったけど、怒れなかったよね。

怒るに怒れなかった。

怒った自分の方が責められる気もしてた。
事態を本当によく読む子だったと思う。

でも、いい子にならずに怒りたかったね。
わめき散らしたかった。
本当は怒りたかった。

不満だ!満たされてない!
何とかしてよ!あんたたちのせいでしょ!

そう叫びたかったね。

でも言えなくて
「あー私ってツイてない。我慢ばっかり。なんて私は気の毒なの」って
そういう卑屈な自分に
段々なっていってたのも分かる気がする。
そういう自分を気にかけてもらうことで
「私はどうでもいい存在ではないんだ」
っていう部分をかろうじて保ってた気がする。


今でも発散できなかった怒りが
たくさん心に詰まってるんだろうな。
だから
『邪魔された』
『自分の楽しみを邪魔された』
そう感じる事が繰り返し起きる。

その度に反応して
相手にめちゃくそ怒るのは当たり前だよね。

種があって
それを発散するために起きてるんだから。

それだけの傷を
私は持ってるってことなんだよね。

その傷があるから怒りが出てくる。
幸せを奪い返してやりたい、
痛い目見せてやりたい、
そういう復讐心も出てくる。

としたら、私がすべきは
全ての発信に関わっているその傷を
きちんと癒して満足してあげること。

そうすれば
怒りも復讐心も出てくる必要はなくなる。
私は周りにとらわれなくなる。


そう、私は周りにとらわれすぎ💦

なんで私の幸せが
そこまで周りの言動に左右されなきゃいけないの?
私の幸せは
周りありきなんかじゃない。

自分への意識が他に逸れた不満、
出掛けられなかった不満、
やりたいことが出来なかった不満、

腹立つ。怒っていい。怒るべき⚡️

だけど
周りが意識を注いでくれなきゃ幸せでなくて
お出掛けの埋め合わせを自分の為にしてくれなきゃ幸せでなくて
やりたいことが出来なかったら幸せでなくて
大切にされてない証拠になって
卑屈になっていって

いまもあの男がいるから幸せでなくて
楽しかったはずの時間がそうでなくなった事が許せなくて、不満で、憎たらしい。

全部分からないでもないけど
なんで私、全部誰か次第なの?

誰かが◯◯してくれたから幸せで
◯◯してくれなかったから不幸。

そう思ってるから
◯◯してもらえなかった事がムカついて
「おかげで幸せになれなかったじゃん!」
って仕返しをしたくなる。

周りを変えたくなる。


私はもっと自分次第でいいんじゃない?

どうしてそんなに周り次第なのかな?
周り次第だと思ってるから
周りを思うように変えたくなるのよ。

どうして自分次第になれないんだろう?