私は無意識のうちに目の前の現象を見て
エゴの声を採用して嘆いている。
エゴの声は以前より静かになったけど、
現象に対する反応は変わらずあるのでかわせずに、
しょっちゅう現象基準で考えてしまう。
例えば
「みんなに愛されてる私」を意図した後で
なんとなく除け者にされてるような気がする現象を見た場合、
「除け者にされてるような気がする」というのは
現象を見たあとのエゴの反応なんだから、
ほっとけばいいんだけど、ほっとけなくて大体グレる。
「なんだよ、私だって頑張ってるのに」とか、
「どうせ私はいらない子だよ」とか、
めちゃくちゃすねる。
で、多分そういう風に思ってる、
そういう未消化の思いが残ってるから、
『そういう思いをする状態が叶う』
=『除け者にされてる気がする現象がくる』
ってことなんだけど
そこはまぁおいといて。
とにかく、現象を見てエゴが感じことを
私はそのまま感じてイライラしたり
悲しくなったりしまくってやさぐれる。
目の前の現象を全てと捉えて見てる。
ただ、感情を押さえるのはよくないし、
「みんなに愛されてる私」
という意図を撤回してるつもりもなかったから
エゴとうまく付き合えてると思ってたんだけど
ふとね、思ったんよ。
エゴの反応を採用して
わーってなってる時の私は
「みんなに愛されてる私がすねている」のではなくて、
「どうせ愛されない私がすねている」のではないか?って。
意図を取り下げてるつもりはなかったけど、
実は取り下げてんじゃね?って思った。
「それでも私は愛されてる」って、
すぐに意図を復活させてはいるんだけど、
なんか全部
「愛されてる私になろうとしてる私」
「愛されようとしている私」
すなわち
「愛されていない私」がしていること
という気がしてきたんよね。
意図イコール実現。
実現→現象化。
私が意図したことはなんなのか?
私が実現したことはなんなのか?
実現したことが現象として現れているなら
そこに多少の時差はあれど
結局「愛されてる私」を望んではいたけど、
「愛されていない私を愛されてる私にしよう」
としていただけだったのではないか?
内面で叶えていたこと、実現していたことは
「愛されていない私」。
その「愛されていない私」のままで
「愛されてる私」を意図したところで
「愛されてる私」の内面にはなっていないから
そんな現象いつまで経っても見えるわけない。
そう考えたら
そもそも意図すら出来ていなかったのではないか?
という気がしてくる。
でも、すごくもっともな感じだけど
こんな風に考えてるのも
「いつまでこういう現象なんだー!!」
って半狂乱ぎみに反応しているエゴの声を
まさに採用してるからなんだよね💧
もしかしたら
「このまま意図してると現象変わっちゃうよー💦変わると(エゴの立場が)ヤバイから変えないでー💦」
っていう惑わしかもしれない・・・