わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

常識や普通に思うこと①

私は常識と言われるものや、
普通とされることに従って、
ずっと生きてきた。

それがトラブルなく、
安泰に過ごせる方法だと思っていたし、
正しいことだと信じてもいた。

だけどその為に
自分の気持ちを無視するようなことが続いて、
それが当たり前になって、
やがて我慢の蓄積で体調を崩した時に、
初めて何もないことに気がついた。

結果として「安泰であるために」
何もかも諦めてきただけの人生。

自分の気持ちさえ、そこにない。

諦めるために言いくるめ、
誤魔化してきた自分の気持ち。

本心なんて分からなかった。

その状態は
まさに地獄。
そこから這い上がることもまた
地獄であった。

誰かのために諦めたことでも
誰かのために我慢したことでも
その人たちは助けてくれない。
誰も助けてくれない。
励まされたところで
なんとかするのは自分しかいない。

馬鹿らしいという虚無感。

それ以上の「負けてなるものか!」
という意思がなかったら
私は今頃どうなっていただろう。


私は
手に入れたい、それをやりたい、
そういう気持ちに従うことは
「ワガママ」だと思っていた。
そういう気持ちを押し通すことは
「嫌われること」
だからやってはいけないこと、
そう思ってた。

周りに合わせなくてはいけない。
自分がそれをしたくてもしてはいけない。

例えば学校の授業。
国語がやりたくても算数、
算数をやりたくなくても算数、
そのように決められたものには
従わなくてはならないということ。

家庭では親の顔色をうかがうのが当然で
友達の間でも
私でも他の人でも
誰かが意見を言うとこじれる経験をした。

自分の意見を持ちつつ
相手の意見を聞いて折り合いをつける。
そんなこと
子供に出来るはずなかったけど
そういう身近なあれこれや
テレビの番組なんかで
「誰かの常識や普通」が
「私の常識や普通」に
なっていったんだなと思う。

そこには
嫌われたくない
困らせたくない
見捨てられたくない
そんな思いが確かにあった。


最近色々あって
以前にも増して
常識や普通はいらないものだなと
そう思うようになってる。

自分の気持ちをねじ伏せることを常とするほど
常識や普通に従って選択してきた私が見たものは
地獄だった。
望むものなんて
何一つ手に入ってない自分。
楽しさも喜びも
感じられなかった自分。
あったのは我慢だけ。
その我慢すら
抑圧しすぎてて分からなかった。
自分の気持ちが分からないというのは
本当に地獄。
だって何もやりようがないんだもの。

私は本当に長いこと
常識や普通に従わないことや、
周りと違うことをすること、
誰か(特に身近な親兄弟)の意に反することは
和を乱すことだからしてはいけないこと、
よくないことだと思ってた。

誰かに迷惑かける
困らせる

それは結局自分を困らせること。
自分の肩身が狭くなること。

当たり障りなく生きなきゃ
周りに見捨てられては地獄をみるって
そう思ってた。

けど
常識や普通、周りに従った私が見たものこそ
地獄だったのよね。

どっちを選んでも地獄だと思うなら

誰かの正しいじゃなく
誰かの希望じゃなく
誰かの思いじゃなく

自分が正しいと思うこと
自分が希望すること
自分がしたいと思うこと


その時の「自分の」気持ちに従えばいい。


周りの影響が
私にはとても大きかった。
母親が私を
自分の感情や機嫌でもって
支配する人だったからね。

でも、母のために
周りと同じように生きようとしたって
私は私。
それは無理なことなのよ。
変えられない。

気に入られようとして
自分自身をねじ曲げるクセがある。
でもそれでは思い通りにいかない。
こんなはずじゃなかったって思う。
そりゃそうよ。
ねじ曲げた私がその私なんであって
本当の私は違うんだもの。


私はもっと
常識や普通から自立したい。
自立する。
もっと自分を解放したい。