わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

長々。w

いつからか、
世界は本当に色んなことにとらわれてるなっていうのを
強く感じるようになった。

なんやかんや口うるさい。

締め付けばかりで生きづらい。

あれしちゃダメ、これしちゃダメ、
こうしなければならない、こうであるべきなんだ、

そんなのばっかり。

そこから少しでも逸れてると非難囂々、
批判の嵐でしょ。

変わってるだの
おかしいだの

さも自分が正しいレールの上にいると言わんばかりに
「正論」と思われることをぶつけてくる。


でも、本当に納得して人生を選んできた人って
そんな風に争わないんだよね。

自分が納得して選んできたから
周りが納得して選ぶことを優先して
考えることが出来る。

例えば、それは選ばない方がって思っても
相手の意思、選択を尊重出来る。
自分はどうだろう?って思っても
その本人にはいい結果になるかもしれないし
ならなかったとしても、それはその人の糧になる。
それによって、今後の選択や生き方が変わることを
分かってるんよね。

相手の選択を、社会常識やルール、
マナーなどに当てはめて批判する人は
自分の選択を、そういうものに基づいてしてきたから
納得してないから、許せないんだと思う。

自分に許してないから許せない。

自覚してなくても
たくさんの制限の中で
苦しんできた人なんだと思う。

私は逆に
そういう様々なルールに疑問を持ちながらも
「頑張って」適応してた人だから無理が来て
私が私に制限かけてたんだってことを
自覚せざるを得なくなったけど
なまじ適応できる人って
自分に無理させてるとかに気付けない。

適応できるから。

疑問を感じても適応できるから
目の前のそれを
当たり前や普通と思うことが出来るんだよね。

そういう風に、難なく適応できる人や
疑問を感じてても適応出来る人の方が多いから、
少し違うことをしただけでも
枠外、ルール外で目立って
あり得ない、おかしいって叩かれて
枠内、ルール内、
みんなと同じ檻の中に引き戻される。

けど、これって誰が悪いのでもなくて
【世界は私の内面の投影】っていう
潜在意識の目線に立つと

単純に私が
私にたくさん制限をかけていたから
こういう世界なんだっていう話なんよね。


私が私に制限をたくさん設けてた理由は
見捨てられない為に
いい子でいる為に
我慢という手段を選んでいたから。

でも我慢って
本当の欲求をねじ曲げて抑え込むこと。

それをするにはね、
欲求を諦めるだけのエネルギーが要るんよね。
そしてそれは中々膨大なエネルギー💦

そのエネルギーを生むには
「これをやってはいけない」
「これはこうしなければいけない」
などの命令形の表現が
私には都合が良かった。

やってはいけないなどの禁止や
こうしなければいけないなどの義務は
刃向かう意欲をなくすし

そうやってがんじがらめにすることで
「こうだから仕方ない」って、
諦めることを納得させられる、
受け入れやすくさせられた。

本当はもっと自由に生きたかったし
過ごしたかった。
小学校の時間割りすら窮屈だったのが本来の私。
やりたいことじゃなくても
やることが決められている、
それも時間で強制的に決められてるのが
ホントに嫌だった。

多くの人は、それでもうまく適応していける。
ただ、私には物凄く耐えがたくてキツイことだった。
楽しいことを味わうと
やりたくないことをする状態に
尚更耐えられなくなるから
楽しいことを放り出す
そんな私になる必要があった程に嫌だった。

楽しいことはしちゃダメ、後回し。
楽しみたかったら先に◯◯しなさいって
楽しいことを取り上げてしまわなきゃならないほど、
この世界は無理だった。


多分、私は元々
あれやこれやの制限が多い魂なんだと思う。

だから制限だらけの世界になってて
その中で
こうあるべき、こうすべき、などの制限を
解き放っていくことが
今生の目的なんじゃないかって
最近思うようになったんだけど

それもホントに最近だから思うことで

潜在意識を学ぶまでは
自分がやって来たことが
一番やる必要のないことだったなんて
思いもしなかったし

何より見捨てられることは
生存本能に直結することだったからね。
無理なかったんだよ(>_<)

って、こんな風に自分で納得してると
周りが何を選んでも学びになると思ってるから
とやかくは言わない。
だけど、納得してないことを相手がやってると
腹立つよね(^_^;)
自分の中にあるルールや常識、
そういった制限から外れてると
相手を罰してしまう。
自分も本当はそうしたいのに
言い聞かせて我慢してるからなんだよね。


私自身、まだまだたくさんの制限にとらわれているけど
それでも潜在意識を勉強する中で、
そういう禁止や義務を少しずつ取っ払ってきて思うのは
しがらみとか常識、決め事ってホントいらないよな
なくなってもいいよなっていうこと。

もっともっと
社会ルールや常識、当たり前とされてるものを捨てていい。

そういうものを
人生のレールに敷いてしまうと狭まる。
枠が出来て窮屈になる。

決められたなかにいること、
それは安心かもしれない。

でも、それは何のための安心なんだろう?

みんなと同じであること?
みんなと違わない自分は普通なんだということ?
仲間外れじゃないこと?
異常じゃないと確信できること?

そういうの捨てて
もっと自分の存在自体、存在そのもので
ここに立っていていいんじゃないかな、私達。

周りの評価、周りに与えられたルール、
そういうのを人生のベースにすることは
周りへの依存や寄っ掛かりに近い。

でも私達は、誰一人として同じではない。
あらゆる価値観を同じにする必要はない。

わたしはわたし、あなたはあなた。

もっと存在そのもので
自律すべきなんじゃないかなって思う。


誰かが作ったルール、
大半がそうだったから普通にされた常識、

要らないと思う。

こうあるべきとか、こうあって普通とか
その中にはそりゃ大切なものもある。
あった方がいいものもある。

例えば
青信号が進めで、赤信号は止まれである常識は
いる。
人を殺めてはいけない、この普通も
いる。

でも

結婚しなければいけない
離婚してはいけない
子供を産まなくてはいけない
転職してはいけない
大学は出て当たり前
出張を断るのは社会人としていけないこと
飲み会を断るのはよくないこと
親の面倒は見て当たり前
長男が家督を継ぐのが当たり前
同居しない嫁はいけない
男の子でピンク好きは変わってる

などなどなど
要らないものだってたくさんある。

もちろん、それがいるものか、いらないものか、
それはそれこそ、一人一人の自由。

だけど、自分がそれを常識に据えたから
据えなかった人をおかしいって思うのは
まだ無理して、言い聞かせてそれを選んでるところがあるからだと思うし、
そんな常識要らないって決めた後で
その常識を採用してる人に批判されてグラつくのも
どこかで納得してない証拠だよね。

ホントに自分次第、自分との戦いなんだなと思う。


もっともっと色々頼らずに
自分達の足というか、身一つで立っていいと思う。
っていうか、そうあることが
本来の私たちの姿なんじゃないかな。
何物にもとらわれないというか。

ルールだけじゃなくて人に対してもおんなじ。

彼氏や旦那、彼女や妻、子供にペット
両親、祖父母、義父母に親戚
兄弟姉妹、従兄弟
友人、知人、同僚
近所の顔見知り程度の人たち

ぜーーんぶ

私が私として
ここに幸せな状態で立つことに
なんの関わりもないんじゃないかって思う。

だからって育児放棄していいとか
ペットの面倒見なくていいとか
言ってんじゃなくて、

【世界は自分の内面の投影】
なんだから、状況関係なく、常識関係なく
万人が幸せになる方法で幸せになれると思うんだよね。

自分の存在ひとつで幸せになれる。

私たちって本来
そういうものなんじゃないかな。


と思ったから、長々と吐き出してみたw