わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

気持ち吐き出し中

今日は仕事でイライラ。なんでイライラするのか、自分の気持ちを探ってみた。

私の気持ちの探り方は、頭の中に誰かを思い浮かべて、その人に気持ちが伝わるように話してみること。ムカっとした人のことも「こうだからムカつく」というのを、分かりやすく伝えようと言葉を選ぶことで、どんどん自分の気持ちが掘り下げることが出来る。

その方法で、今回も気持ちを探ってみた。
そしたら
『全ては我慢してるからなんだな』
というところに行き着いた。


私は、エネルギーのコントロールが下手。
でもそれは、節約が必要なくらいエネルギーがないからってわけじゃない。
我慢することで、外に出すはずだったエネルギーを内側に抑圧してるから、そっちにエネルギーを使っちゃうから枯渇してしまうだけ。
エネルギーを使うところを間違ってるんだよね。


本当なら、自分の望みを叶えるという形で、外に出すはずだったエネルギーたち。だけど、本当はそれがしたいのにしなかったり、やって欲しくなかったことなのに受け入れたりして我慢したが為に、そのエネルギーは外に出ることが出来ず、我慢という形で内側に留まってしまうメカニズム。

『○○したい』『○○してほしい』という活発なエネルギーが『我慢』に姿を変えて内側に溜まっていったら、そりゃしんどいでしょっていう話。


我慢してしんどくなるっていうのは、本当に損だと思う。こっちが我慢、つまり相手に譲るという行動をとることで、相手は思い通りに出来てご満悦。ストレスフリー。でもこっちは、譲ったが為に気持ちを抑え込んでストレスフル。『望んだことができなかった』とか『不快な思いをさせられた』とか、とにかく嫌な気持ちになった上に、更にそういう気持ちまで抑え込んで、二重の我慢に身をさらすんだから、ホントに損だと思う。

言葉を選ばずに言えば、私が譲ってあげたから、相手は自分の思い通りに過ごすことが出来たんだよ。私の我慢という犠牲の上に、相手の幸せや満足は成り立ってるの。

相手の満足の裏で、とても不快な思いをしていた私。その不快な思いにエネルギーを費やして疲弊したり、感情が不安定になったりしてるのに、端から見たら私の辛抱が足りないとか、感情が不安定だとか、私に非があるような評価になる理不尽さ。

相手目線で考えない自分勝手もよくないけど、
自分目線で考えないのは本当にめちゃくちゃ損だと思う。


そう、私はずっと相手目線で、自分目線を捨てて生きてきた。『誰かのために』いつも何かを我慢するのが私のこれまでの人生だった。自分を蔑ろにすることが、とにかく多かったんだ。


『相手が困るだろうから』と思ってそれをやらない。本当はやりたいのに。
『相手が聞いてほしい』と思ってるだろうから聞いてあげる。本当はそんな話、興味ないのに。
『相手の機嫌を取るために』褒めてあげる。本当は全くそんなこと思っていないのに。
『相手が良かれと思って手を貸してくれるから』手伝ってもらう。本当は1人で出来るのに。


だけど、相手がどう思ってるかの『』の部分って、早い話、私の予測でしかないんだよね。本当にそうなのか、それは相手にしか分からない。

例えば『良かれと思って手伝ってくれてる』を採用してるけど『本当に良かれと思って手伝ってくれてるのか?』それは相手にしか分からない。もしかしたら単に暇で、手持ち無沙汰という自分本意な理由で手伝ってるだけかもしれない。
そこに『私のため』っていう思いやりはないのに、わざわざ相手を立てる、感謝する方向に持っていくから自分疲れるんじゃん?って思うところもある。

私が下手なのは、本来やりたかったこと、そこに使うはずだったエネルギーの使い道、発散の仕方なんだと思ってた。我慢とか譲るとか、そういうのがあまりに多くて、処理しきれない。だから一番の対処法は、その『我慢』をやめていくとことなんだろうなと。
でも、必要以上に相手を立てたり、その為に自分の能力や意見を見下げたりすることは、我慢と言えばそうなんだけど、我慢というよりは、そもそも自分のことを全く尊重していないのが最大の問題なんじゃないかと、そう感じている。


もっと自分目線で自己主張をする。
気持ちを言う、自分で感じる。
『本当はこうしたい』という気持ちも、
『こうしたいけど出来ない』という気持ちも、
大事な私が感じている大事な感情。
無下にしない。
やりたいようにやる。

相手に気を使って引っ込めるからおかしなことになる。
やりたいようにやる。
やりたくないならやらない。
楽しくやる。どうやったら自分が楽しくなるのかを考える。他の人は関係ない。他の人の楽しさと私の楽しさは別、相手に合わせない。

そう、他の人は関係ない。

でも、これらのことって『自分を尊重すること』が出来なければ、出来ないんだよね。

私が心地よく在りたい。その為にどうしたらいいか、それは私の気持ちが知ってる。
だから『こうしたい』が出てくるんだし、他の人たちは、私から見たら傍若無人に見えるくらい、自分の好きなようにやってる。

なのに、自分は『自分の気持ちを尊重したらいけない』と思ってる。

自分の意思、意見、やりたいこと、好きなもの、こうしたいという思い、そういうのを『採用してはいけない』と思ってる。自分の思う通りにするのは良くないこと、ワガママだと、そう思ってる。

その発端はやっぱり、小さい頃に、自分の気持ちを尊重した時に嫌な思いをしたことが大きいと思う。多分、確か寿虎さんもブログに書かれていたけど、実際は親の都合、周りの都合だったと思う。私が悪いのではない。私は単に欲求を伝えただけ。
でも、それを蔑ろにされたり、適当に扱われたり、無視されたり、それはワガママだと怒られたり、とにかく自分の気持ち、意思、そういうのを『軽んじられた』と感じることが、確かに多かった。

子供は素直だから、禁止されたら、良くないことだと理解して禁止するよね。私はそのまんま禁止してきたから、気持ちを出すのが本当に難しいし、そりゃ自分のやりたいように好きに動いている人を見たら、自分目線だけで動いてる勝手な人にもなるよ。


自分もそうやりたいのに出来ない苦痛、
および、
こちらに配慮しない相手への苦痛、
および、
小さい頃からしてきた自分の意思採用禁止の苦痛


・・・三重苦?


まぁ、とはいえ、いま一緒に勤めてる人のような、自分がやりたいからって、周りのこと考えずに動くような、そんな視野が狭い人にはなりたくないんだけどね。周りの様子を見つつ、自分の意思をハッキリ言える人、自分目線と相手目線の比率をうまく取れる人になりたい。
関わる以上は、やっぱり相手にも、ある程度は心地よくいてもらいたいし、だからって相手の心地よさを優先させて、自分はいつも心地悪いですっていうんじゃ、自分がかわいそすぎる。

何十年と自分の意思を押し退け、抑圧し、邪険にするってことを繰り返してきたんだもんね。浮かんでも無視して、なかったことにする。だって、言うのはワガママだと学んでいたから。そうしなければ、相手の機嫌が悪くなると思った。相手の機嫌が悪くなったら、自分は安心してここにいられない。

そう、きっと私は、自分の安心と引き換えに、自分の自由意思を差し出してた。我慢するから捨てないで、置いていかないで、そういう気持ち。

もしかしたら、遥か昔、おもちゃ売り場で駄々こねて、置いていかれたことでもあるのかもしれない。すごい不安と、持っていきようのない『こうしたい』を経験したのかも。