わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

HSP

ハイリー センシティブ パーソン。

エレイン・N・アーロン博士によって提唱された概念で、人一倍敏感な気質を持った人のことをさすらしい。

私は先月、ネット検索をしていて初めてこの「HSP」という言葉を知ったのだが、
多くの特徴が当てはまってビックリした。

アーロン博士の本は読めていないのだが、何冊かの本は買って読んだ。
まだそんなに知られているものではないようで、
私も病院で正式に診断を受けたわけではないから「どうやらHSPっぽい」という程度なのだが、

この言葉を知った時、
自分が生きづらかったのは当たり前で、
分かる人には分かってもらえる状態だったのだ、
ということが素直に嬉しかった。

自分の状態を「なるほど!だからか!」と
自分で納得できたのも嬉しかった。
周りのようにいかないのを自分の至らなさのせいだとよく責めていたけど、
別に私がおかしかったわけではなかったのだ。


私が自分責めを減らせたのは、
自分の生きづらい状態そのものを「HSPなんだ」と受け入れられたことが大きい気がする。

かつて、どんな精神状態にも名前がつくことを
不思議に思ったことがある。
細分化して名前をつけなくても、
そういう人っていうのではいけないのかなぁと。

だけど今回、自分の状態に
「ふさわしいと思われる名前」を見つけたことで
「それらしい」と受け入れることができた。

名前というのは、受け入れる為につくものなのかもしれないと感じた。


どうやらHSPは病気や障害ではなく、

『誰もが持っている感覚が人一倍鋭いだけ』
らしい。

持って生まれた気質、遺伝子レベルのことなので
変えようがなく、自分で自分の敏感さをよく理解してうまく付き合っていくより他ない、という印象だった。

「これは理解されにくそう」
そう思った。

誰もが持ってる感覚が人一倍鋭いだけ。

例えば、私が人混みに疲れて座りたがってる状態でも、周りから見たら単に体力のない人だろう。

疲労の幅はあるけれど、
人混みに疲れるのは周りも同じだから

「こっちはまだ疲れていないのに」
「頑張らない人」

などと比較されやすいと感じた。

それがもし「病気や障害」なら、
まだ気を配ってもらえるのにと最初は思った。

でも、結局はその本人でない以上、
限界かどうかって分からない。

「甘えてる、ズルしてる、言い訳してる」

『多くの人の普通』ではそう判断されるだろうと思った。

それはまさに、これまで自分が自分に対してやってきたこと。

周りと比較して『多くの人の普通』に沿えていないと判断した自分を
私はいつも「甘い」「ダメな子」と責めていた。
だから、周りからそのように思われるだろうということが、容易に想像できた。

考えすぎることや人混みがダメなこと、
飲み会などの集まりが有り得ないくらい負担で辛いことなどなどなどなど......
頑張っても無理で、本当に生きづらいポイントがたくさんある。

でも、どんな人にも何かしらあって、
それなりに我慢して生きている以上、

人より敏感で疲れやすいなど言い訳にしかならないだろうと、絶対理解されないだろうと思った。

『多くの人の普通』より敏感な私は、
『多くの人の普通』から外れているから
結局生きづらいことに変わりはないのだ。

もうそのようにしか思えなかった。


だけど、潜在意識の視点から考えると

【そう思うからそうなる】らしいし、

理解されない、と思って生きるのではなく、
理解されなくても私はこれでいいのだと思って生きたかったから、とにかく何回も何回も本を読んだ。

電話だったけどカウンセリングも受けて、
とにかく抱え込んだ話を聞いてもらった。

そのうち、
胎内にいる間に受けた影響や幼少期の環境など、
自分ではどうしようもなかったことが多々関係していることを考えると、
これはもう『そういうものなんだから仕方がない』というように、
段々割り切れてきた。

周りの顔色をうかがって生きてきた私にとって、
周りにどう思われるかというのは、
言ってしまえば生死に直結するくらいの大問題だったんだけど、

後天的な性格は直せるけど、持って生まれた先天的な気質は直せないらしい

➡周りの人にどう思われるかを気にして、枠からはみ出さないようにしなくてはと『多くの人の普通』に合わせる努力をしてたけど、それは無理なことだったと理解した

➡敏感で疲れやすく、周りを気にする、それが自分。それは治せないし、治す必要はなかった

➡『多くの人の普通』に合わせて生きる必要はない

⇒これからは自分が幸せと感じる生き方をしていこう!

だいぶ簡素化してるけど、HSPを知った何日か後、そのように覚悟が決まった。


外出して疲れた時、
「疲れたね~どっかで休む?」
と自分に聞ける私になった。
以前は
「疲れたね~」と言いつつ、
「でもあと少し頑張ろうね」
だった。

自分の気持ちが分からなかった頃、
自分の気持ちを聞くこと自体していなかったのも
あるけど、

上記のように「どうしたいか」が出てくる前に言い聞かせ、ねじ伏せていたから、
自分から答えが返ってくることはなかったのだと思う。

少しずつ、自分に聞いて答えを待つということを繰り返していたら、いつの間にか
「こうしたい」という自分の声が出てくるようになった。

その声に従うことで、満足する時間も増えた。

といっても、自分ばっか優先して、周りの人を邪険にしているわけではない。
その時々、自分が一番納得できることを選んでいるだけ✨

『だけ』って言っても、最初はやっぱり簡単ではなかったけど(^_^;)))


HSPという言葉をきっかけに、
『多くの人の普通を基準にして生きなくていい』
という許可を自分に与えることが出来たことは、

本当に幸いだったと思っている(^^)

多くの人がなんだ~
多くの人の普通と違うからってなんだ~

これがわたくしなのだ(^^)d


ちなみに最近、名探偵コナンの映画『戦慄の楽譜』を見る機会があったんだけど、それを見て以来

HSPって絶対音感のようなものなのかなー」となんとなく思ってる。

多くの人にある何かが『多くの人の普通』よりちょっと鋭いあたり、似てるのかなーと。

あくまでわたくしなりの捉え方だけど。