前々回からの続きです。
私にとって、安心感を得ることは、
特別感を得ることとイコールでした。
安心感を得たいイコール特別感を得たい。
安心感を得る方法が、特別感を得ることになっていたわけです。
特別感を得たところで、本当には満足できません。
でも、自分を保つ為には付け焼き刃でもなんでもいい、特別感を得ることが不可欠でした。
その特別感を得る手段が
「周りと比べ、その人よりも優位に立つ」
というもの。
「私はあの人よりマシ→私は特別→私は見捨てらなれない→ひとまず安心」というループの完成です。
ただ「あの人よりマシ」というのが安心の始まりなので、負けず劣らずの闘いが絶えず必要です。相手よりマシな私である為には気が抜けません。比較も止めることが出来ません。
そんな私にとって、
「比べる必要はない」
「みんな素晴らしい」
という言葉は
『自分は特別であるということを感じ得なくさせる言葉』でした。
だって「みんな素晴らしい」んですよ?
私は私のことを素晴らしいと思えないのに、みんな素晴らしいんだったら、私なんてますます素晴らしくないじゃないですか。
特別感を感じることで「存在していて大丈夫」と思っていたのに「みんな素晴らしい」とひとくくりにされてしまったら、私はもう特別感を感じられないわけです。すなわち「存在していて大丈夫」と思えないんです。
屁理屈かもしれませんが、何をもって
「みんな素晴らしいと言ってるんだ?」
と本気で思ってました。
「生きてるから素晴らしい」→「じゃあ死んじゃった人は素晴らしくなかったわけ?素晴らしくないから死んじゃったわけ?」みたいなこともよく思いました。
でも、そのくらい「存在価値」「存在理由」というものが分からなかったんです。
YouTubeで占いの動画を見るようになって、いい言葉をたくさん聞くことが増えても、その辺は変わらずでした。
自分だけは例外、という気がずっとしてました。
自分だけは例外で愛されないとかね。
自分は周りと違って「特別」ですから、マイナスの意味でも特別な自分が成立するんでしょうね😓
でも、気付く時というか、終わりはちゃんとくる。
前回の記事の終わりに、
比較しなくても素晴らしいから比較しないのではなく、比較しても素晴らしいのは変わらないから比較しなくていい、
という言葉を書きました。
これ、私としてはすごい気付きだったんです。
あなたと私は、違う人間です。
お互いに素晴らしい存在です。
何故なら代わりがいないからです。
自分に自信がなかったとしても、
◯◯が出来なかったとしても、
あなたは素晴らしいし、私も素晴らしい。
いわゆる無条件です。
その点、私は条件が必須でしたから、
「あの人は✕✕が出来ない。でも私は出来る」
などと比較して考えることで、私は素晴らしいと認識してきました。私はあの人より特別だと感じる→安心感を得る、のループです。
しかし、これでは自分が下にならないよう闘いが始まります。比較も止まりません。
そんなある時(ホントについ最近です)
「あの人は✕✕が出来ない。私は出来る。私は素晴らしい」という、いつもの比較の言葉の後に、
「でも、私は✕✕が出来なかったとしても、やはり素晴らしいんだよね」という言葉が不意に続いたんです。
「あれ?」と思いました。
「褒めたね私。認めたね」
絶対に勝ってなきゃいけない状態が急に緩んだんです。
無条件でオッケー状態が理解できなかったのに、突然無条件でオッケーが出たんです。
「ということは、あの人より私はすごいけど、あの人と比べなくても素晴らしいってことは、すなわち比べても比べなくても素晴らしいってことになるんじゃね?」
そう思いました。
「あぁ、なるほど。比較したらダメなんじゃなく、比較しなくても今の状態でヒトはオッケーな生き物だからワザワザ比較しなくていいんだな。だからみんな素晴らしいのか。別に比べても比べなくても結果は同じなんじゃん」
やっと長話の根幹に辿り着きました笑
でも、もうちょい続きます笑