わたくしなりの毎日

これがわたくしなり(^^)ということで、私だから思うことや感じることを、毎日ゆるゆる綴っていきます。

やっぱり突き抜けられる

うまくまとめられないけど、書いておく。

昨日、私は1日モヤモヤしていた。

心がザワザワして落ち着かなくて、
気が沈んで、何をやっても楽しくなくて、
気が晴れなくて、そんな1日。

「人間だもの、こういう日もある」と思った。

だけど、今回はなんだかいつもと違った。

少しでもいい気分になろうと思って、
自分に「どうしたい?」と聞くのだが
「分からない」と言う。

「どっちがいい?嬉しい?」と尋ねても
「どっちでもいい」と言う。

静かに考えたい。
そうかと思えば、何もしたくないと言う。
かと思えば、じっとしてるのが勿体ないと言い出した。
それで買い物に出てみたがつまらない。
今度はまた、ゆっくり考えたいと言い出した。

帰って色々書き出してみるも、いつもみたいに考えがまとまらない。何かに気付くこともない。

「疲れてるのかな」
「まぁそのうち何か分かるだろう」
そう思って、ここまでをブログに記録しておこうと書き始めた。

だけど記事を書いてるうちに、
どうしてモヤモヤするのか、1日分からなかった
その理由に気が付いた。

昼間は主観で紙に気持ちを書き出していたのだが、記事を書いている時は客観的にまとめていた。
それが自然と内観になっていたんだと思う。

私がモヤモヤしていた理由、それは

「どうして願ってることが現象化しないんだろう」

という疑念の気持ちが膨らんでいたからだった。

実はここ数ヶ月、
私が望んでることを周りが叶える
ということが起きていて、

それがただ聞くだけの遠さからから、
とても身近な人のところまで来ていた。

周りに幸せが来るのはいい兆候🌈

それは、色んなブログや本を読んでいたから、
知識としては知っていた。

でも、周りの幸せがまだ遠かったうちは、
「きっと私もそうなる✨」
と思えていたんだけど、

身近に起きると、
「なんで私じゃないの?」
ってなってた。

「私はいつなの?」って。

だって、周りにきたからって、
私もそうなる保証はないでしょう?

実際、私には何の変化も起きていなかった。

頑張ってたから、
ずっと「そうなりたい」って思ってたから、
身近なところでそれを見たことで

「なんで私じゃないのかな」
「なにか間違ってたのかな」
「不足から願ってたのかな」

と色々思い詰めて、焦ってたことに気が付いた。

祝福の気持ち、
嫉妬の気持ち、

全部本当の気持ち。

早く叶えたい、
でも時期があるんだよね、

これも本当の気持ち。

相反する気持ちが結構あって、
そりゃモヤモヤするわなって思った。


「周りに起きたことを祝福できる私でなければ
私の身に起きない」
そう思っていた自覚はない。だけど、
何かが蓋になって気持ちを感じられていなかった。
だから「嫉妬」も「不安」もそれとしては感じることが出来ず、モヤモヤしてたのだと思う。
受け入れていない感情は、表現のされ様がないのだろう。
気が付き、受け入れた今となっては、
今回のモヤモヤは「どうして現象化しないんだろう」という「不安」や周りに対する「嫉妬」の集合体だったと分かる。


気持ちに蓋がされていると
どうしたって気付きにくい。
だから受け入れることが出来ない。

けど、不安にしても嫉妬にしても、
「そっか、そう思ってるんだね」
と受け入れるから
「じゃあどうしようかな」
という選択に進める。

私は受け入れるステップを飛ばして、不安や嫉妬を抑えた状態で祝福という選択をしようとしてた。
そりゃキツイと思う。
まず気付いて、受け入れることが必要だった。

「自分はそうなれるのか不安である」
「私だって頑張ってきたのにという嫉妬もある」
それに気付いてまず認める。受け入れる。

それらは、抑え込んで感じないようにしてた程、
不愉快で不利益なイヤーな気持ち。だけど、
確かに自分が感じている気持ちだから無視しない、認める。

その後で「不愉快で不利益な気持ち」に浸り続けないことを選択する。
感じたくないほど嫌な気持ちなんて、もう選ばなければいい。
それはいらないと決めて、ここで祝福に切り替える。

「だけど、おめでとう。私もきっとそこに続く!」


こう考えると無理が少ない(^^)


今回のモヤモヤも、最初は意味が分からなかったけど、やっぱり意味があったんだなと思う。

『やっぱり絶対突き抜けられる』そう思った。

それに加えてもう1つ、
今回のモヤモヤは私に大きな気付きを与えてくれた。
それは『私は他人とは同じようには出来ない』という思い込みを持っているということ、だった。